阪神大震災の記憶

あの忘れられない朝から10年。
もう10年?やっと10年?
昨日のように思い起こせる私は前者です。

あの日もし死んでいたら、このブログもweb*citronもユヅって人も生まれなくて、この記事を読んでいるあなたとの出会いもなかったのです。
生きててよかったなぁと感謝しつつ、当時を振り返ってみました。


当時13才の中1。震度7の地域の神戸市に住んでいます。
最初のガン!と強い揺れで目を覚まし、咄嗟に布団を被って丸くなる私。「な、何?何?!」と混乱して地震であると気づくのに数秒かかりました。(それまで地震といえば、電灯の紐が揺れてるレベルだった)
その時、至近距離でゴスッと鈍い音が。最初の揺れが収まった後に起きてみると、枕に鉄のアイロンが落下してきていました…。
もうちょっと遅かったら死んでたヨ((((;wンДwン)))
起きた父と母と合流する最中も、ギィ~~~、ギィ~~~といやーな音を立てながら大きく揺れるマンション。まるで船上です。この時点で電気・ガス・水道はアウト。補給物資とストックに頼ることになりました。
更に、住吉浜手のLPガス流出で全員に避難勧告命令。しかし、どこが安全なのかどこまで逃げればいいのかもわからない状況と情報不足。うちは何処にいても爆発したら助からないよと開き直って帰宅(ノ∀`)
よく生きてたなぁと思います…。

海の手のうちから山の手の神戸の町を見渡せば、電気のない真っ暗な街に点々と浮かぶ赤。それは火の手でした。その景色は日が経つにつれ、ブルーシートの青い色で染まり、その青が消えるのには数年を要しました。
瓦礫と化した住宅地には、やがて白い花がぽつぽつと並びました。半海外では電柱が折れて電線がぶら下がり、コンクリートやガラスの破片が積もり、ビルの外壁が崩れ落ちて内部や骨組みが剥き出しに。余震に怯えつつ街灯も民家の明かりもない中をリュックを背負って歩く住民たち。戦時中ってこんな感じだったのだろうか、とふと思いました。

忘れられないのは神戸のホテル・オークラさんによる、客室照明を使った「ファイト」「LOVE KOBE」のメッセージ
初めて見たときはちょっぴり涙が。崩壊した町の中で途方に暮れる人々の気持ちを明るくしてくれた素敵なエールでした。物資の支援も勿論大事ですが、精神的なダメージを癒してくれるみんなが笑って話せる明るいニュースも大事だと思います。

新潟、スマトラ沖、現在進行形で苦しんでいる人たちもいます。
ですが今日だけは10年前の被災者たちに黙祷を。
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